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「原爆記」 三浦 清一

 
原爆の長崎訪問記
一、
原爆投下後の浦上天主堂付近
 去る八月九日午前十一時二分原子爆弾が長崎に投下された。私が往年伝道した所である。信徒達や同労者の方々がどうしておられるか、問安のため私は長崎を訪問した。十月五日午前十一時汽車は道の尾駅に着いた。以後は徐行運転である。まもなく異様な光景が展開された。押しつぶされたガスタンク、折れまがった鉄骨、一面の焼野原、左方の高台に浦上天主堂の残骸、その左方の刑務所の塀が崩れている。医科大学の建物は無い。付属病院の焼けた建物が見える。右方の城山小学校、鎮西学院も残骸をさらしている。浦上駅はない。三菱兵器製作所、製鋼所は完全に破壊されて鉄骨と車輌、鉄板、煉瓦、ガラスの破片等散乱して山をなしている。長崎駅につく。包帯した男女、素足で歩いている子供達、荷物を背負うた者、鉄兜の復員兵、アメリカ兵、雑然とした光景である。通りかかった車を呼びとめて乗せて貰う。

「宿屋につれて行ってくれ」「さー、宿屋ですか」
 しばらく考えてから、「一軒だけあります」。
 この車夫は手も足も包帯している。聞いてみると「あれにやられました。家も焼けた、女房も子供も死にました。生き残った私はこの通りの負傷です」。急げないのでゆっくり歩く。大波止の海に臨んだ昭和閣という旅館につく。「二、三日前から始めたばかりで、御覧の通りの有様です。

 お米はお持ちでしょうか」「五合持ってきました。二泊のつもりです。これを四回にして食べさせてください」。壁は落ちて埃だらけ。二階の廊下は波状をなしている。水平でない。ずい分やられたものだ。窓から外を眺めると稲佐が見える。永田君はどうしているか。友人の医学博士。明日訪ねてみようと独言いいながら、海上を見ると大小の船艇が星条旗を立てて走っている。アメリカの軍艦も数隻。渋茶を飲んで考える。如何に行動すべきか。

二、
 先ず県庁を訪れる。勝山国民学校で事務をとっている。来意を告げると次のように語った。「爆心地は浦上方面で二十個町が全滅した。
 死者二四、二八六名、負傷者四○、九九三名、計六五、二七九名。この数字は届出と推定による。爆撃当日官庁、学校、病院等の勤務者は一万六千人。そのうち三、七〇〇名が助かったが、その中から死者が続出しているので、死者は十万人位になるのではないか。要するにわからないというのが真相です」「家屋の被害は新聞発表では全焼一一、四九四戸、全壊二、六五二戸、半壊五、二九一戸、残る家屋も満足な家は一戸もありません」「官公庁としては県庁、控訴院、地方裁判所、専売局、浦上・長崎両駅、刑務所、放送局、本博多郵便局、文化施設では長崎医大、薬専、師範学校、中学校三、女学校四、国民学校六が鳥有に帰しました。国宝の福済寺や本蓮寺等、基督教会、護国寺等が惨害を受けました。」

三、原爆投下後の浦上天主堂(北側)
 以上をノートして惨禍の跡を歩くことにする。自然に足のむいたのは大浦天主堂である。監督事務所と筆太に横文字の看板を掲げている。ドアの呼鈴を押すと、カソックをまとうた若い神父が現われ応接間に通された。神学校の教授畑中先生である。「とにもかくにも今回の原子爆弾は長崎教区だけでなく、全日本のカトリック教会にとって実に大打撃でした」と前置きしてその被害を語られた。

 破壊全焼 浦上公教会
   〃   中町公教会
    大破 飽浦公教会
    中破 大浦公教会
 社会施設で全滅したもの養育院一、女学校二、幼稚園四、修道女院一。
 市内二万のカトリック教徒のうち一万が死亡、その中に神父五名。残る一万人の半分は四散して四.五千人が残っている。教会として追悼ミサを行ない、救済に乗り出して衣類の配給、孤児の救済をやっている。この孤児救済は外国人修道女が始めた。たまたま長崎を訪れてこの災難に遭った一外国人修道女は「私が長崎にやってきてこの災難に遭ったのは天主の御旨によるものです。父母を亡い、家を焼かれた孤児の母となることが私に与えられた使命です」と信じて現在既に五十余名の孤児を収容しています。浦上天主堂とその信徒の惨害は言語に絶する。あの方面の人々は全部死んだ。
 爆心から離れた三菱造船所や川南造船所等に勤めていた者だけが助かったが、帰宅してみると家は焼かれ、家族は一人も残っていない。その人達も親類縁者を頼って四散した。残るは千名位。焼け残りのトタン板で掘立小屋を作って住みついている。日曜には焼跡に五人、十人と集まって祈りをささげたが、現在では千名位になっております」
以上のお話を承わって、カトリックは復興する。必ずやもう一度日本の聖地となるであろう。私はこの感を深くした。

四、
 次はプロテスタント教会の被害調査のため教区長青山武雄氏の自宅を訪問した。爆心から遠い夫婦川町にあるが、家屋は相当の被害である。その夜青山牧師は旅館に訪ねて下さったのみならず、七日の日曜には同氏宅に市内の教役者を集めて下さった。その結果
 全焼 城山教会(旧メソヂスト)
  〃  大村聖三一教会(聖公会)
 大破 馬町教会 (旧組合教会)
  〃  銀屋町教会(旧メソヂスト)
 中破 勝山教会 (旧バプテスト)
 大浦教会(旧日基)、と古町教会(旧日基)はほとんど無傷であった。飽浦教会は強制疎開で破壊されており、牧師館は全焼した。市内八教会のうち二教会を残して災難を受けた。浦上寮(医大Y・M・C・A寄宿舎)は一名を除く十数名が一瞬のうちに生命を断たれた。私が長崎に在任中は我が家同然に出入りしていたところだ。悲痛な気持で聴いた。 新教側の死亡者は大約六十名見当、主な人として、後藤義一郎夫妻(聖公会)、角尾晋博士(医大学長)古屋野教授夫人、山口氏夫妻(三菱青年学校長)、塚本氏(三菱兵器部長)、溝口夫人、湊川教授(活水女専教授)、久保田三菱製鋼所長夫人、森隆氏、(同所技師)、教職として城山教会の大友牧師とその家族が死亡された。川上牧師は牧師館を焼かれ家族を亡い、御自身は白血球減少症にかかり、頭髪はほとんど抜け食欲は無く、全身倦怠、皮膚症状等原子病の全症状が現われている容態である。鎮西学院宗教主任の千葉牧師も同様原子病を発病、夫人を亡った。同学院の西条牧師も家族を失い御自分は負傷された。
 「今後どうしてゆくつもりですか。」と質問したのに対し、教役者の語られるところ、勿論伝道以外にない。然し長崎の運命は三菱造船にかかっておるから、これがどう処置されるか判明しない限り遠い将来の計画は立てられまい。しかし目前にたくさんの仕事がある。幼少年少女の保護、老人の救済、冬の来る前の衣類夜具の準備などであるが、多くの信徒が離散して教会の自給が困難だから、到底他に手をのばす余裕はない。せめて向こう一ヶ年位他から経済援助を受けられるならば、何とか立ち上り得るだろうというのが教区長が特に私に語ったところである。

五、
 カトリック側と新教側の状況を聴いた私は各個教会を訪ずれることにした。
 馬町教会は薪にしかならない位にやられている。近くにある勝山教会は割合破損が少なく何とか使用に堪えそうである。会堂は何かの事務所になっていた。牧師館は釘づけされていた。大村町の聖公会を訪ずれた。私が往年牧した教会である。あたり一面焦土。塀の一部と石段のほか何一つない。
 門にのしかかるように一本の大きないちじくの木が燃えて幹のみが立っているのも哀れである。懐旧の念にたえがたく、チャンセルの跡と思われる所に立って粛然と祈りを捧げた.松岡牧師は姿を見せなかったが大浦方面に居られるそうで、怪我がなくてよかった。近くの県庁、控訴院、裁判所の跡を歩き、築町市場の跡を通って銀屋町教会と古町教会を訪ずれた。
 銀屋町教会は相当やられている。吉見牧師のお話によると、修理に二万四千円をかけたら七、八年は使えるらしいが、資材難と大工不足で急場の修理も不可能である。今から大工に頼んでも工事にかかるのは来年夏頃になるだろう。その間にも損害はひどくなるばかりであろうと語られた。附属幼稚園は強制疎開され、残った建物に数家族が入居していた。大浦教会は幸運であった。しかし信徒は四散して礼拝も困難である。牧師は不在であった。黙祷して去る。次に中町の天主教会を訪ずれた。よくも砕けたるかなといいたい位に破壊されている。十字架の尖頭のみ天にそびえているのは何となく崇高な感じだ。ここの神父は焼死しておられる。謹んで脱帽する。幼稚園・保育所も焼けている。黒焦げの聖母像がころがっている。何を暗示しているのだろう。

六、
 浦上方面に向う。医科大学も薬学専門学校もない。附属病院の形骸が在るだけだ。患者・看護婦・医師・教授達の幾百人かが生命を断たれたことであろう。更に歩を進める。一面の焦土で目標がない。ここらに浦山寮がと思うがはっきりしない。福音を高らかに歌いあげたなつかしの浦山寮医大YMCAも消え去った。
 浦上大聖堂に至る。数本の石柱と壁を残して崩壊している。正面大玄関前にある信仰五十年の記念碑も横ざまに倒れている。砕かれた聖徒の像、まだぶすぶす煙っている小山のような物のかたまり、煉瓦、煉瓦、煉瓦。ガラスの破片。大破壊だ。壁の上に使徒ペテロの像が傷一つ負わずに立っている。右手にバイブルを抱き、眼は高く天を見上げている。唇のあたりに祈りの言葉がただよっているようだ。天と地の秘密の鍵を我らの主よりゆだねられたペテロは何を語るであろうか。ペテロよ語れ。この大破壊の意味するものは一体何か?平和は果していつの世に来るのであろうか!この大伽藍の破壊の前に立って私は言葉を失った。旅人はペテロの言葉を聴きたいのだ。
 方向を西に向けて城山教会をさがすのに苦心した。鎮西学院の破壊は凄い。黙念として眺めるのみ。更に飽浦方面まで歩きまわる。友人永田君の家も傾むいている。レントゲン室と書いた扉がはみ出している。隣家の人に聞くと空襲の前に田舎に引越した由。ほっと安堵の胸をなでおろす。ここから長崎の姿を眺める。鶴の港をはさんで右と左に市街はひろがる。三分の一は焦土。三分の二は火災にはまぬかれたが大小の被害は全家屋に及んだ。美しい長崎。異国情緒の豊かなりし長崎。ローマンスの長崎は一発の原子爆弾に打倒された。今なお死者が続いて十万人には達するだろうと云われる。
 このようなことが許されてよいものか?鬱々たる胸をいだいて海を渡る。昭和閣から程遠からぬ出島はどうなったか見ておく必要がある。出島は寛永年間オランダ人の為に造った居留地である。外部との交通は江戸町との間に架した一つの橋によった。私が見たいのはそこに古い基督教の建物があるからだ。今を去る八十年前に建てられた聖公会神学校である。幸にこの古い建物は残っていた。屋根は破れている。塀は半ば倒れている。窓ガラスもわれている。鐘楼も危く見える。昔この聖堂で福音が説かれ、祈りの鐘が鳴り響いた。だのに今はその気配もない。

七、
 長崎の復興について新聞人はどんなことを考えてるだろうか。出島の民友新聞社に西岡竹次郎氏を訪ねた。西岡氏は社長であり、前代議士であり、民衆の味方として知名の人だ。西岡氏のいうところによると、長崎は何としても(一)貿易港として(二)観光都市として(三)水産県として(四)平和的工業都市として立つより道はないと説かれる。その実現のため第一に完全な都市計画を立てること。そのためには下水工事の完成、地下溝を造り、電信・電話・電燈線等々地上一切のものを収容しなければならない。博物館、図書館等の文化施設に金を惜しんではならない。世界第一の水産県として世界一の水族館を作り、水産のことなら長崎に来たれと世界人に呼びかけること、等々十数ヶ条を滔々と述べられた。政治家である。最後に長崎の惨状と苦悩と将来への希望を賀川豊彦先生にお伝え下さい。キリスト教団を通して広く世界に伝えて下さいと訴えられた。以上は目に見ゆる方面のことである。真の復興は目に見えぬ方面から始まらなければならない。一切の問題は精神の問題に帰し、魂の問題に帰し、道徳の問題に帰する。この故に教育の方針を根底から変革する必要がある。国際友好精神の欠如と無智独善が敗戦の理由であったことを反省して、国際社会人としての日本人の立場から出直すべきだ。原子爆弾の威力といえども人間の魂の殿堂を破壊することはできない。長崎の復興は祈りからでなくてはならぬ。宗教運動からでなくてはならぬ。とこしえに汝の聖鐘を鳴りひびかせよ。今なお死に直面して苦悩する長崎の人々よ。目を天に向けて下さい。聖霊があなたの魂を新しくよみがえらせる。神よ、リバイバルの聖火をこの地に燃やし給え。私はひとり静かに祈った。十月八日の朝、三日の滞在を許されて思い出の長崎に別れを告げた。

 

 長崎聖三一教会原爆被害報告書(米国ワシントンのセイヤー博士に送ったもの)

一、 教会の沿革
 一八五九年二月米国聖公会は、日本伝道に関し次の決議を発表した。日本伝道の根拠地を長崎とする。現在中国で伝道中のリギンズ氏・ウィリアムズ氏を日本派遣宣教師に任命する。安政六年五月、リギンズ氏はたまたま病気療養のため長崎滞在中に右の任命を受け、ウィリアムス氏は、六月下旬長崎に渡来した。翌年宣教師シュミットも長崎に来た。しかし、リギンズ氏は病気が悪化して滞在十ヶ月で帰国した。宣教師シュミット博士も南北戦争が始まり、滞在一ヶ月程にして帰国した。当時は禁教中で、ただ一人残ったウィリアムス氏は、役人の厳しい監視下にあったので、伝道活動は出来なかった。主祷文、十戒、使徒信経、祈祷書の和訳に専念するしかなかった。慶応二年三月、主教按手のため渡米し、再び日本に渡来した時の任地は大阪であった。一八六九年一月、英国聖公会C・M・S初代宣教師エンソー氏が長崎に渡来して四年間滞在、この間小林六郎、宮本健蔵等十名がエンソー氏から洗礼を受けて、これが長崎聖三一教会の基礎となったのである。明治四年春バンサイド氏長崎着任に、明治八年出島教会を建てたが、完成前病気のために帰英した。大阪のエビントン氏が長崎に来て建築を完了した。日本人専用の日本聖公会最初の教会であった。明治十年十一月三十日、モンドレル師により東山手九番にアンデレ神学校が建てられた。明治十一年十一月、出島教会に隣接する十番、十一番に出島神学校が竣工した。明治二十三年出島教会を大村町に移築し、五月二十五日献堂式を行った。その跡には宣教師館を建てた明治二十七年からエビントン主教在任するに及び、宣教師館は主教館となり、出島神学校内に主教座チャペルがあった。

二、 原子爆弾被害の概況
 一九四五年八月九日午前十一時二分、B-29爆撃機は落下傘をつけた爆弾を投下した。原子爆弾であった。落下傘は、ゆるやかに降下して市街の北部五〇〇米の上空で爆発した。被害の中心地は、浦上方面であった。その中心から半径一キロの円内は、すべての生物が一瞬にして生命を断たれた。
 屋内にいた者は、倒潰家屋の下敷となり、戸外にいた者、道路を通行中の者は、猛烈な爆風のために吹き飛ばされ、負傷して即死した。引続いて起った火災のために一切が灰となった。爆心地から一キロ以上三キロの地点においても、戸外にいた人は例外なく放射能により火傷し、負傷し、死者をだした。家屋の被害は全市に及んだ。又負傷せず火傷もなく元気に活動していた人々が、八月下旬から一夜にして、或は数日の病で続々と死んだ。原爆当日から数日後に死亡した者を第一期症、その後血球破壊による死亡を第二期症、何の障害もなくて突然死の床についた者を、当時の医師達は第三期症と称した。この第三気症による死亡者は数万人に及んだ。戦争は八月十五日に終っていたが、全市民は暗黒の死と直面して、恐怖の日々を過したのであった。死亡者総数は八万人。

三、 教会堂の焼失
 原子爆弾の炸裂によって、爆心地から三キロの地点にあったわが長崎聖三一教会は、損害を被り続いて起った大火災によって焼失した。当時松岡司祭が在任中であり、牧師館も勿論破損したが、倒潰にいたる程ではなく、司祭夫妻は幸いにも微傷も負わなかった。爆発に引き続き起るかもしれない危害をさけるために教会からかなり遠方にある防空壕に避難した。その夕刻に帰ってみると、礼拝堂も牧師館も全焼していた。建物の全部と教会創立以来の貴重な文書、教籍簿等記録全部を焼いたのである。

四、 信徒の受難長崎放送局より市街を望む-長崎駅方面-
 この原子爆弾によって、長崎聖三一教会信徒の内、廿九名が生命を奪われた。その氏名は次の通りである。
 1 後藤 義一郎(七五才)20・8・9死亡 浜口町の自宅で即死
 2 同 輝子 (六八才)右と同じ
 3 林田 幸枝 (荒男氏の長女)20・8・9死亡。城山町幼稚園で即死
 4 三女 静枝 20・8・9 松山町自宅で即死
 5 三男 漠 20・8・9 自宅で即死
 6 五女 雅子 20・8・9 自宅で即死
 7 六女 明子 20・8・9 自宅で即死
 8 泰 民江 20・8・9 浦上刑務所で夫人看守として勤務中即死
 9 同 フジ子 (長女) 20・8・9 刑務所裏の官舎で即死
10伊賀 由喜友 20・8・9 長崎医大生化学教室で即死
11宮本 文甫 23・3・11 江平町の江崎イネ姉の借家に住み、当日は川南造船所に勤務 中で直接被爆しなかったが、壕舎生活のため、九月原子病を発病し、二十三年三月南高・神代で死去
12 同 富士 (夫人)20・8・9 外出中松山町で即死
13 長女 文子 20・8・19 家の下敷きとなる。川南病院で治療中死去
14 三女 博子 20・8・22 家の下敷きとなって負傷、原子病で自宅の壕舎の中で死去
15 四女 智子 20・8・24 家の下敷きとなり大腿骨折、川南病院で死去
16 五女 明子 20・8・9 家の下敷即死
17 三男 宏 20・8・18 家の下敷きとなり頭部顔面に受傷、川南病院で死去
18 伊達 満寿美 20・8・9 竹久保町自宅で即死(松山の人)
19 同 秀子 右に同じ
20 同 惇 右に同じ
21 陽夫 20・8・9 竹久保町自宅で即死
22 田川 康二 竹久保町自宅即死
23 夫人 ツル 右に同じ
24 同 定則 右に同じ
25 石橋 主枝 即死
26~29 氏名不詳四名(内二名田川氏の子息、他二名は徴用で来崎中)合計二十九名

 以上の方々の当時の状況の概略を記載する。後藤義一郎、夫人輝子は、爆心から百米の距離にある自宅で即死。後藤老はわが教会の柱石であり、教区の信徒代議員、多年常置委員会を勤めた。教会にとり、教区にとって大きな犠牲であった。同氏は長崎の産業界、特に水産界の第一人者であった。輝子夫人は教区婦人補助会の副会長であった。爆心から百米の距離にある長崎刑務所の二名の婦人看守の一人として、泰民江は勤務中即死。長女フジ子は官舎で即死。次女正子さんは外出中で一人生残った。爆心から五百米の距離に江崎イネ姉の住宅があり、これを借家した宮本文甫一家八名中次女和子さんを除き七名が犠牲となった。文甫氏は、川南造船所に勤務して難を免かれたのであるが、帰宅してみて、妻富士、五女明子二名即死。 その後半月の間に四名の子供が次々に死亡。その看護と壕舎生活のため、八月二十五日から原子病の病症を発病。二十三年三月郷里の神代で死亡した。文甫氏は、原爆投下の八月九日以後、詳細な日記を記録、これにただ一人、大村師範に在学して生き残った次女和子さんが追加記録した貴重な原爆資料がある。その概略を本報告書の末尾に記述する。
 爆心から六百米の距離にある長崎医科大学・生化学教室で研究中の伊賀氏は即死。彼は医大YMCA活動に熱心な学生であった。医大の基礎医学教室は、教授・助手・小使に至るまで一人の生存者もなかった。大学病院は、爆心に面した北側の部屋に在室した教授・助手・看護婦及び入院患者の全部が死亡した。南面する部屋にいた人は、殆ど助かった。コンクリートが放射線の防壁となったためである。大学全体で八百余名が犠牲となった。角尾学長は、上海の帰路八月六日の広島の惨状を現地に見て、九日朝全職員を集め、患者は勿論全職員、学生の緊急退去を指示してその直後に原爆が投下され、学長もその犠牲となった。角尾学長は篤信なキリスト者で、YMの指導者でもあった。爆心から八百米の距離にある竹久保町に当教会の古い信徒、田川氏と伊達氏の二家族が住んでおられ、田川家は長男一人を残し五名全部犠牲となった。以上の記述の外に四名の方々が死亡されたのは確実であるが、原爆犠牲者の名簿が無く、八年を経た今、全力をつくして調査した結果、以上の事実が判明したのであるが、ついに四名の氏名と死亡状況を知り得なかった。多分徴用工として長崎に来て転入会した方々と思われる。当時全国から集められた徴用工は八万人と称せられた。

五、他教会の被害状況
 最大の被害は爆心地の浦上天主堂であった。聖堂内で奉仕中の四名の神父を含む一万の信徒が生命を奪われた。爆心の浦上にカトリック教徒が密集居住していたからである。中町天主堂も甚大な被害を受け火災で焼けた。新教側では、竹久保の鎮西学院が無惨に破壊された。幸いにして夏休みで生徒が在校していなかったが、千葉牧師(死亡)、川上牧師(家族が死亡)外数名の職員が被爆した。帰宅中の生徒の被害状況は、戦後の混乱のため詳しいことは不明のままである。新教各教会の原爆犠牲者は六十名である。

六 、当時より八年を経た当教会の状況聖三一教会
 原爆直後から市内、市外の至るところで、毎日沢山の人が死んだ。八月十五日、日本の無条件降伏で戦争は終ったのであるが、県、氏の当局は、米軍の強行上陸を予想して、全市民の市外退去命令を出した。八月の酷烈な太陽のもと、陸続として市民は田舎をさして避難した。そのうち八月下旬から前記の原爆第三期症の恐怖が始まった。混乱は実にその極に達した。人々は自分の前に死を見た。信徒達はこの混乱と試練の中にあって、お互いの安否を問う余裕もなく生きのびることにせい一杯であった。傷つける兄弟姉妹達が家がなく、寝るに床なく、医療も受けられない悲惨な状況に呻吟しつつある時、それを慰め励ます一人の友もなく、次々に天に召されたことを後日になって知った生き残りの信徒達は、神の前に恥じ、且つ悔いた。この悔いは償いようがない。その悲しみは消えない。
 このような試練にある時、信徒は教会を思わなかったのであろうか?松岡司祭が浜崎サク姉宅にその全家族と共に避難していることを誰一人知らなかった。その後、三菱職員の犠牲者を収容するミドリ寮に寮長として移り住んだ。米海兵団が上陸するや、その通訳となった。引きつづき軍政府が設置されるやその通訳となって甚だ多忙であった。
 昭和二十四年米国聖公会から日本聖公会に対し、援助の手がさしのべられ、わが教会にも一五〇〇ドルの資金が与えられ、十月にはこれで牧師館を建て松岡司祭が移り住んだ。二十四年九月末、軍政府が廃止となり、松岡司祭は信徒が希望してやまなかった牧会に専念することとなった。だがこの時既に四年余の才月が流れていた。原爆の日から傷つき、倒れ、迷い散っていた小羊の群れが教会の保護と平安を想起させられた時、最悪の試練の日は過ぎ去っていたのである。それから二年後に松岡司祭は大阪教区に転出した。一昨年のことである。原爆後今日まで八ヵ年の期間に、六ヵ年信徒達は牧者を持たなかった。原爆犠牲信徒二十九名のうち氏名不詳四名、葬儀の執行されたのは後藤老夫妻だけであった。これは大洋漁業中部氏の御好意による。今日平和と秩序の中に生活しつつある者にとり、信じがたいことかも知れないが、事実であった。それ程にも忘れられた小羊の群れであった。しかしながら牧者を持たぬこの二年間、信徒は毎日曜牧師館に集り、主日の礼拝を守って一回も欠かさなかった。信仰の火を守り続けてきた。教会再建費、現在八万五千円、これは米国軍人等から与えられたものであるが、我々信徒の献金も含まれている。

七、信徒の祈り
 教会二千年の歴史は、我々に教える「信徒の血の流されたところに教会が建つ」という事を。我々信徒の間から幼児を含む二十九名の血がこの血に流された。この血は「キリストの御名のために」流されたのではなかった。原子爆弾投下という大きな誤りのために流血を強制されたのであった。教会を焼かれ、教会の資産である日本聖公会最古の貴重な資料を失った。生き残った信徒は、形なき公同の教会と共に、筆舌につくしがたい試練の幾年を歩きつづけた。そして今日に至るも神を礼拝する会堂を持たない。八年間に若い娘は結婚し、嬰児は生れ、神に愛された老いたる兄弟姉妹は次々と天に召された。その都度、「聖別された礼拝堂」を持たぬ悲しみを満喫したのである。
 冒頭に記述した通り、安政条約による日本開国と同時に米国聖公会は、長崎を日本伝道の根拠地とした。日本における最も古い教会として長崎聖三一教会は設立されたのである。長い歴史と輝やける証言を持つ誇るべき教会であった。我々の間で最もこのことをよく知る苅谷老人が、「長崎聖三一教会再建のため血汗の祈りを持って奉仕しておる」と我々を激励したのは四年前のことであった。齢八十のこの老夫妻は、今日も祈りつづけておられる。全信徒は、教会再建という至上命令の重圧の下に祈りつづけている。激しい信仰の戦いは、原爆投下のその日から始まったことを我々は神のおん前に証言しうるのである。そして必ずや我々に勝利の証言をもって報い給うことを確信するのである。

八、再建計画
 我々は祈りのうちに次の計画を示されている。
1 原爆犠牲者二十九名の記念碑
2 礼拝堂・収容人員二百名
3 牧師館(現在のものを移転する)
4 幼稚園、収容児童数百二十名
  これは市民に強く要望されている。子どもたちは遊び場を持たず危険地帯に放置され  ている。教会はこの子供達を収容し教えるべき使命がある。
5 女子学生ホーム
  子女を長崎に遊学させている父兄にとり、最も困っているのは安心出来るホームのな  いことである。女子学生ホームを実現することは、その不安を解消すると同時に最良  の福音伝道の場をうることでもある。
6 以上に要する敷地六百坪
7 外人宣教師の定住
 原爆当時もし一人の外人宣教師がいたなら、我が教会は、このような苦難の道を歩くことはなかったはずである。安政六年(一八五九年)以来六十余年、常に宣教師が定住して当教会を育成したのであった。今、潰滅の打撃から立ち上がろうとする時、母教会は再び 宣教師を派遣して教会再興を援助されたい。
以上の計画達成のため、米国聖公会並びに婦人補助会の同情ある援助を切望してやまない。わが教会が、原爆記念教会として復活しうるように援助を賜わりたい。

一九五三年八月 (元聖三一教会司祭)

 ◆次のページ「一九四五.八.九.(吉見信)」

〒850-0003
長崎市片淵1-1-4
Tel: 095-826-6935
Fax: 095-826-6965
牧師: チョ ウンミン
事務スタッフ: 荒木真美子      竹内洋美
音楽主事: 嘉手苅夏希
ゴスペル音楽ディレクター:
     中村百合子

第一礼拝:毎週日曜日9:00am

第二礼拝:毎週日曜日11:02am

賛美集会
毎月第三土曜日 3:00pm

English Service (英語集会)
Sunday 5:00pm

祈祷会:毎週水曜日7:30pm

その他の集会につきましては
教会までお問い合わせ下さい