「原爆体験記」

上野 貞子

世界の最初の体験である。其の当時は原爆などと言う名さえも知らず、思えば身の毛のよだつ思いである。一体戦争は人間性を無視される最悪の事態である。其の当時のことを思い出してみよう。
八月九日のもったいないような青空なのに、穴居生活、人間も最低の生活となったものかなと共同の防空壕からそろそろ出て、畳の上で昼食でも致そうかと流元で手を洗って居ると、東の空に敵機が現われた。一機なら大した事もないでしょう、警報も鳴らぬなら大した事もないでしょう、と言いも終らぬ内にピカッと強い光に圧倒されてどっと後に倒れた。するとドーンと重圧を感ずるような音がして同時に旋風が吹きまくり、家中の物は皆空中に舞い上り、一瞬にして足の踏み場もない物凄い状態に化した。私はあっけに取られてぼう然と無言のまま眺めていた。暫時の後、近所の人々が家の前に集まって、前代未聞の驚きを話合っていた。皆目の色を変えて身を震わせている。
街を見おろせば、浦上方面は煙で覆われて其の間に火が見え、物すごい様相である。あ!!娘達が働いている〔○は〕工場は、炎の真只中、あゝ大変だ炎と火の中でどんな目に合って居るだろう。あゝ気が狂いそうだどうせ死ぬのでしたら余り苦しまずに一思いに死なせて下さいと言いながら、どうぞお助け下さいと神様にすがり付くように、イエス様の御名で御祈りして、もう立ち上る勇気もなく祈ってばかりいる。家の中の整理をするでもなく夕食の時間になっても座敷の縁側に、腰掛けて祈ってばかり居る。主人はぼつぼつ整理して又私を慰め力づけてくれた。運よく助かっているかもしれないよ、神様におまかせるする事だねと言われて、そうだと気を取り直し、貧しい夕食を整えた。七時になっても八時になっても、食事をしようとも思わず、只お茶などばかり飲んで気持ちを重くしていた。主人だけは食事をすましていた。
かれこれ九時近くになって入口に只今と言う声が聞こえた。今迄この声を待っていたのに、それが聞こえてくればハットして空耳かと思った。でも物音がするので、恵ちゃんよく帰って来られたねと涙が先に出てしまった。よく帰って来られたねと言えば、お母さんほんとに大変で友達と二人だからこられたのよ、一人だったらもっと疲れて或は道に迷って帰って来られなかったかも知れん。話も出来んほど大変だった。先ず上って顔を洗って話して頂戴。食卓に向った。一寸待ってこんな嬉しい時こそあの大切なトマトを初もぎしようと、丹精込めて作った美事なトマト七個の内三個を神の前に感謝を込めて捧げ今日の感謝の食事に只一つの御馳走である。私も何も食べたくなかったのが急に空腹になり、一同恵が命を全うして帰って来られた事を、ひたすら神の救いの大いなる御手の業を拝する心地して、聖書の近頃読んでいた詩篇九十篇を力強く読ませて頂き、感謝の祈りを捧げ、三人声を揃えてアーメンと唱えて食事をした。
此頃の食事は配給の若布の味噌汁と大根漬であた。それに今年始めて作った私の傑作トマト、其のおいしい事、店で買った物とは比べ物にならぬ程の段違いであった。これも神様から頂いたものと、今夜の食事は何もかもおいしかった。

死地より救わる ―娘の話よりー
此の日〔○は〕工場に配置され掃除などしてる間に上野と野田と二人、向島行と傳令が来た。今すぐなら荷物のトラックが出るからそれで行け、と言って下さった。あちらこちらの倉庫に荷を下ろしながらやっと向島倉庫の前で降ろされ、事務所で係長さんが一寸待ってなさい、私が来ない前に警報が鳴ったら、あの防空壕に走りなさいと行ってしまわれた。待っている間に壕の前に立って見ていたら、ピカッと目のくらむ様な光、驚いて無意識に壕にかけこんだ。一瞬の間に大勢の工員さん達がどこから集まってきたかと思うほど大勢になったので、苦しくて抜け出して外に出て見た。
其の辺に積んであった材木やら道具が皆くづれて整頓してあった敷地がガチャガチャであった。
やっと稲佐橋迄きたら、夢でないかと思うほどのすさまじさ、負傷人だらけ、うめく声、水くれとさけぶ者、とても橋は渡れなかった。川上の方に二人共余りの驚きに無言のまま、離れない様気をつけてねと、心細くなると手を取り合って迷いに迷って大学の後の方面の村をさまよい、遂に西山に出た。あ、これで助かったと安心したら、急に疲れが出て少し休んで行きましょうと、諏訪神社の石段の上に約三十分程も休んで、サアもう一度奮発と足腰をたたいて手を取り合って歩き出した。
ああ、あなたと二人でよかったと、二人同時に言ってアハハと笑ってしまった。笑ったら疲れが少し薄らいだと、喜んで勇気が出て、サア此間に急ぎましょうと中通りのせまい町を薄暗くひっそりした町をどんどん急いで福砂屋の所迄たどり付いた。さあここで別れましょう今日のコースは一生忘れないでしょう、其の内又会いましょうと別れた。サアもう一息と手をにぎりしめ、石段を登り見ればまだ半分も登っていない。今日の石段は何と意地悪だろうと、ぶつぶつつぶやきながら、やっと我家の玄関にたどり付いた。此の重大な一日程、神様の御恵を痛い程感じた事はなかった。

特筆大書された事件も思えば三十年昔であった。体験者の我等に取ってはさ程昔とは思えぬ。思いを新たにすれば胸の痛みも、町の死人を焼く臭気も、なまなましく感ずるのである。トマトの味さえ思い出せる。一生我が魂の常に新しき文字として覚え、深く又我身の側近きに居まし給う主の存在を覚えて、感謝の生活を新しく送りたいものである。