「原爆投下后の長崎に帰って」

長崎の地に原爆が投下された日は、門司の暁部隊内の防空壕の中で九州全図の地図を拡げ中隊長を前に、飛行機を型どった紙型をラジオのニュースに従って動かしていた。それが敵機襲来時の私の任務であった。飛行機はきまって足摺岬を通って本土及び九州を攻撃してきた。
その日も丁度、ラジオは、長崎に新型爆弾が投下され、長崎市民は盛んに敢斗していますと何回も繰り返し、繰り返し報道されていた。
それから八月十五日の終戦を迎えた、部隊で聞いた放送は、明確に聞えず、始めは、ソ連の参戦ではないかと憶測された。而し終戦と云うことを知って内心、心の中ではこれでやっと終ったと云う気持で満たされたたことは誰れもが抱いていた本音であったと思う。
その后は、軍隊と云わず街の中と云わず種々な混乱が起り、我々の部隊でも書類を焼く火が不気味にも夜空を真赤に焦した。なかでもデマが乱れ飛んで人心を尠からず動揺せしめたのも事実である。その一つに長崎には敵軍が上陸してきたので、婦女子は全員避難命令が出ている。残っている女子は外人部隊におかされ、まともな者は一人も残っていないと云う流言飛語が伝えられた。
この噂の出所を聞いて見ると、実は昨夜長崎から終列車で帰ってきた食堂車の女子従業員が見て来たばかりの話だと、誠にうがった話である。まさかと思ったが、動揺している特に長崎出身の者には、我が家族も（殆んど手紙も届いていない）生存していないかもしれないと思うのは当然である。
斬様な空気の中に、軍隊から解放され帰宅が許されたのは九月の上旬であった。
門司から朝の汽車に、軍隊よりの下給品である毛布を背にして乗り込んだ、長崎方面へ帰る何人かも確か一緒だったようである。ヨタヨタした汽車で、やっと諫早近くに来た頃は夜になっていた。長与、道尾方面を過ぎたと思ったが周辺は全くの闇で人影は全然見えなかった。勿論家らしいものも目に入らなかった。長崎駅へ着いたのが夜の八時半か九時頃だったと思う。やれやれとホームを出ると駅の広場は解ったが皆目くら闇で見当がつかない。焦土と化した駅前附近は丸坊主で目標になるものが何一つない。重い毛布を背にして歩き出したが、方角が解らない。僅かに夜空に光る電車のレールを探して、線路を頼りにヨチヨチ歩きながら何回か腰をおろし方角を確かめながら歩いた。途中あちこちで、積木が燃えていた。後で聞いた話であるが、これ等の火は死体を茶毘に附した残り火であったようである。
一体これは、新型爆弾と放送されたが何と云う強力な爆弾であったろうか、これだけやられていたら我が家も灰燼に帰しているかも知れないと思い、ままよ我が家の存否を確かめる必要上、電車の曲り道になっている桜町（現在の市役所横）の停留所より馬町方面へ向うとポツリ、ポツリと家が見え出した。諏訪神社の下まで来ると家並が見え始め、西山通りは殆んど家の型が残っていた。幸に富貴楼の下附近にあった我が家はそのまま残っていた。玄関を開けると病床の母と姉が夢かと驚いた。その状況は推察におまかせする。丁度家内は出産の為に愛野へ避難していた。
当時私の住所は原爆投下の浦上と区分された金比羅山によって、二分された反対側の所にあったわけである。爆風がどう云う流れであったか解らないが、私の家の二階の障子は全部その桟が吹き飛び枠だけが残り、二階の書斎の高机が上下に転倒して居り、畳はふちが重なり合っていた。
階下には中風にて母が就寝していたが、高窓の硝子が破れその破片が布団の上に飛散ったと云うことであるが、幸に母はかすり傷一つ受けずにいた。姉は丁度家内の実家がある駅前へ電車で行く途中千葉町の電車の中で被爆し防空壕へ一時避難して帰って来たと云うことであった。
原爆の破壊力が如何に大きな者であるか、又人心不安の中に流れるデマが如何に合理的に組みたてられているか、当時を回想する時に混乱の最中には何が起こるか解らない、虞るべきものがあることが感じさせられた。そして人間の世界に戦争ほど惨めなものはないと云うことが思われてならない。平和の時には、空気と同じように、その有難味が理解出来ないが、私共は二度とこのような事態を再現させてはならないと思う。平和を望み平和を愛し、これを続けることは人間の幸福の要件である筈である。この為には、イエスが生涯を通して主張された「心の平和」を確立することこそ最大の要諦であると思われる。