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  キリシタン殉教と迫害

     
   

 原爆と平和
「あ,危ない!」

 「キリシタン迫害と殉教」

   
  迫害と殉教の歴史
  二十六聖人記念館
  サンタ・クララ教会記念碑
  帳方屋敷跡
  大浦天主堂(国宝)
  信仰の碑(浦上天主堂)


長崎全景 【迫害と殉教の歴史】
1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して献身的に布教したことに始まり、宣教師たちが多くの努力を重ねた結果、最盛期(1605年頃)のキリシタン人口は約40万人に達していたという。その当時の日本の総人口は1,200〜1,500万人であったと推定されています。
 しかし、1587年の豊臣秀吉による伴天連追放令に始まり徳川幕府による度重なる厳しい弾圧により、多くのキリシタンたちが全国各地で迫害を受け殉教者が相次ぎました。このように、宣教師や主だった日本人の指導者たちが次々に殉教し、或いは国外追放されたことにより、遂にキリシタンたちの信仰は根絶やしされたと思われていました。しかし、そうではなかったのです。禁教令が敷かれ探索が厳しい過酷な幕藩体制下にあって、キリシタンたちは潜伏し一人の宣教師もいないまま7世代250年間にも亘って信仰の灯を守り抜きました。にもかかわらず、キリシタンたちの苦難は、明治政府になっても浦上四番崩れ(浦上村一村総配流事件)の試練を受けるまで続きました。そして、1873年の切支丹禁令の高札撤去に至りついに信仰の自由を得て、ようやく迫害の終わりを迎えることができたのです。(写真左上:稲佐山から一望した長崎市全景)

 キリシタン迫害と殉教の歴史の中で、長崎はその悲劇の中心地であり、今も当時を偲ぶ遺跡が多く残っています。長崎は、将に信仰の喜びと哀しみが詰まった街なのです。
 以下、キリシタンに係る代表的な遺跡を紹介します。

二十六聖人記念碑【日本二十六聖人記念館】
 豊臣秀吉により1587年に伴天連追放令が出された中、1596年12月9日、6人の外国人宣教師、18人の日本人修道士及び伝道士が逮捕され、更に護送途中で逮捕された日本人信徒2人を加えた26人が、極寒の季節、京都から長崎までの約1ケ月にわたる死の行進の末、1597年2月5日、長崎西坂の丘で磔刑に処せられて殉教した。26人の中には、12才のルドビコ茨木をはじめ、4人の十代の少年も含まれていた。
 1962年(昭和37年)6月10日、列聖百周年を記念して、西坂の丘(JR長崎駅前)に舟越安武の「二十六聖人の記念碑」と同時に「二十六聖人記念館」が建てられた。(写真左上:二十六聖人の記念碑)


【サンタ・クララ教会の記念碑】
 1603年に建てられイスパニア人宣教師アルウァレス神父が司牧した、当時の浦上村でただ1つの教会だった。徳川幕府の禁教政策により破壊されたあと、教会で働いていた孫右衛門は、神父を失った村人の中に帳方(教会暦に基づく決定・指導をする総括的指導者)、水方(洗礼を授けることが主たる役)、聞役(帳方の決定を各戸に伝える役)からなる地下組織を作って信仰を固めた。その後の250年間、村人たちはこの教会跡を祈り場とし、毎年夏にはここに集まり、盆踊りを装って祈りを唱えていたという。
 大橋町国道206号線沿いの大橋交差点の住吉寄り約20mのところにある。


【帳方屋敷跡】
 徳川幕府の厳しい迫害の下、浦上地方の潜伏キリシタンの地下組織を指導してきた帳方の屋敷跡である。初代帳方・孫右衛門以来七代目の吉蔵が浦上三番崩れで殉教して組織が崩壊するまで、代々の帳方がここに住んだ。現在、「永井隆記念館」と「如己堂」が建てられ、「帳方屋敷跡」の碑はその入口にある。


大浦天主堂(国宝)【大浦天主堂(国宝)】
 1865年1月24日に建てられた。当時フランス寺と呼ばれ、南山手の外国人居留地に住む外国人を対象とした教会として「日本26聖人」に捧げられた。正式名称は「日本26聖殉教者天主堂」である。日本最古のゴシック様式の木造天主堂であり、1933年1月23日に国宝に指定された。1865年3月17日、フランス寺の異人が七代待ったパーテルかどうかを確かめに浦上村のキリシタン数人が訪れた。そして、その中の一人の農婦がプチジャン神父の耳元にささやいた。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」、「サンタ・マリアの御像はどこ?」。そして、「本当にサンタ・マリア様だよ、ごらんよ御腕に御子ゼスス様を抱いておいでだよ」と言うのだった。失われていたキリシタン信徒たちが250年間の闇の中から発見された瞬間だった。驚きと喜びの知らせが世界中の教会を駆け巡った。現在、「日本の聖母」の像は天主堂の入口に立っている。(写真左上)


浦上天主堂【信仰の碑
 浦上のキリシタンたちは、大浦天主堂でプチジャン神父と出会って自分たちの信仰を明らかにした後、お寺での葬儀を拒んだためキリシタンであることが明るみに出ることとなった。このため、切支丹禁令高札を継承していた明治政府は、1868年から1873年までの5年間、名古屋以西の十万石以上の大名20藩32ケ所に浦上のキリシタンたちを分散して配流した。いわゆる「浦上四番崩れ」事件であり、浦上のキリシタンたちはこれを「旅」と言って耐え抜いた。配流者総数3,384名、配流地での死者613名、配流地での出生者163名、1,011名が棄教し、1,900名が信仰を守り抜いて帰郷した。棄教した者も帰郷後に殆ど信仰を取り戻したと言う。(写真右上:浦上天主堂)

 この「旅」を記念して、「信仰の碑」が浦上天主堂の境内に建てられ後世の人々への証しとされている。

 

 

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