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  長崎の歴史

     
   

稲佐山展望台より望む長崎全景

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 観光名所


喜びと哀しみが詰まった街・長崎
   
牢屋の跡に建つ市役所、校舎を壊せば教会が出現…


九州を中心に七十六の取材拠点をもつ新聞社のなかで、同僚記者たちに「一度は勤務したい都市」のアンケートをとれば恐らく一位は長崎市だろう。異国情緒にあふれ、自然は豊か。魚はうま旨いし人々は開放的だ。戦争の悲劇を語り継ぎ、平和をつくりだすとはどういうことかを考え提言する、被爆地としての重いテーマがある。年間を通して祭りや行事に事欠かぬ「ネタに困らない街」である。

縁あって二〇〇〇年夏から長崎で働いている。特異な歴史をつくってきたキリスト教文化に強くひ惹かれ、事件や行政取材の合間を縫っては街を歩き、史跡を訪ね、深い信仰に生きる人々に話を聴いている。これまでに幾つかの連載や特集記事を書いた。取材するたびに新しい感動と発見がある。




26聖人殉教の碑長崎のキリスト教史は一五六七(永禄十)年、宣教師ルイス・デ・アルメイダによる布教に始まる。三年後に長崎開港。大村純忠の寄進でイエズス会領となり住民はキリシタンになるが、一五八七(天正十五)年に豊臣秀吉がばてれん伴天連追放令を発布する。西坂の丘では一五九七(慶長二)年、神父や信徒二十六人がはりつけ磔にされた。「二十六聖人の殉教」である。(写真上)

秀吉が死ぬと「東洋のローマ」と称されるほど再びキリスト教が栄える。だが、一六一四(慶長十九)年には徳川幕府が禁教令を敷いた。長崎のキリシタンは以後二百五十年にわたり、五人組制度やえぶみ絵踏、宗門人別改めという徹底した弾圧のなか、地下組織をつくりひそ密かに教えを守り伝えたのだった。

一八六五(慶應元)年三月、浦上の十数人の信徒が完成間もない大浦天主堂をこっそり訪れ、神父に信仰を告白した。長く厳しい迫害を耐え抜いたキリシタンの存在は「世界宗教史の奇跡」と驚きをもって迎え入れられ、いまも語り継がれている。


近代的なビル街で、キリシタン時代の面影を探すのは楽しい。毎日のように記者会見が開かれる県庁は十七世紀初め「岬の教会」と呼ばれたイエズス会本部だった。裁判所の場所には病院、孤児院、養老院などを備えた聖書の教えに基づく福祉の拠点「ミゼリコルディア本部」が置かれていた。
サン・ドミンゴ教会跡弾圧の時代、市役所別館(水道局)の地は、捕縛された大勢のキリシタンがつながれた桜町ろう牢だった。そのすぐそばの小学校では二〇〇一年に校舎を解体したところ、秀吉の命令で破壊されたサン・ドミンゴ教会の地下室や石畳、井戸の跡が出現した。(写真右)壊された教会の跡に建てられた寺院も多い。
市北部の浦上には、殉教した信徒の墓や秘密教会跡、イエス・キリストが十字架に架けられたゴルゴダの丘に似ているという十字架山などかな哀しみを秘めた史跡が点在している。


大浦天主堂南山手の大浦天主堂(一八六五年建立)は現存する国内最古の教会堂として有名である。(写真左)だが、同じ居留地だった東山手にはひと足早くプロテスタント教会が完成し、幕末から明治にかけて、大浦川を挟む二つの丘に旧教と新教の礼拝堂が並びたっていたことはあまり知られていない。


「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と聖書はいう。布教開始から四百三十余年。長崎の街には、神への確かな信仰に生きた人々の喜びやかな哀しみが凝縮して詰まっている


田川大介(西日本新聞記者)


長崎の名所(長崎の観光名所を通して、さらに深く長崎の歴史に触れたい方はこちらへ!)

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